アグネスフライトの基本情報
馬名 | アグネスフライト |
生年月日 | 1997年3月2日 |
父 | サンデーサイレンス |
母 | アグネスレディー |
戦績 | 14戦4勝 |
主な勝ち鞍 | ’00日本ダービー(G1) |
調教師 | 長浜博之 |
騎手 | 河内洋 |
馬主 | 渡辺孝男 |
生産者 | 社台ファーム |
昭和を代表する騎手の一人に“河内洋”という騎手がいるわ。
「牝馬の河内」と言われていて、牝馬に乗せたら日本一とまで言われていたの。
大レースをいくつも制していたけど、たった1つだけ手の届かない栄冠があったわ。
それこそ、ジョッキーの憧れである“日本ダービー”よ。
その河内の夢を叶えた1頭の栗毛の馬がいたわ。
その血脈たるや河内とは切っても切れないほど縁のある血統だったのよ。
祖母はアグネスレディー。
母はアグネスフローラ。
その息子こそ河内をダービージョッキーにした馬なの。
その名は…
『アグネスフライト』。
桜花賞馬アグネスフローラとサンデーサイレンスの間に生まれたアグネスフライト。
栗東の長浜博之に入厩しデビューを待っていたけど、気が付けば年が明けデビューは2000年2月の京都開催だったわ。
ここを後方から差し切り勝利収めたアグネスフライトは皐月賞を目指しトライアルの若葉ステークスに向かったの。
絞りすぎたのか馬体重は-22㎏。
レースも後方から進めたけど、いいところなく12着と大敗したわ。
これで、皐月賞出走は叶わなくなった陣営は目標を日本ダービーに切り替えたのよ。
仕切り直しの一戦は、皐月賞の前日に阪神で行われるオープンの若草ステークス。
中団やや後方からレースを進めて行くと、最後は持前の末脚を発揮して見事勝利。
次に選んだのは、京都で行われる京都新聞杯だったわ。
出遅れたアグネスフライトはそのまま最後方からレースを進めて行ったわ。
先頭からシンガリのアグネスフライトはでは10馬身くらいの差だったのよ。
3コーナーの内回りで河内の手が動いたわ。
残り600mを通過してから外から一気に前との差を詰めていく。
1番外に持ち出したアグネスフライト。
内からタップダンスシチーが先に抜け出すが、大外から上り34.5の脚で差し切り勝利。
これで文句なく日本ダービーに向かったのよ。
2000年5月28日第67回日本ダービー
快晴の東京競馬場で行われたわ。
1番人気は皐月賞馬のエアシャカール。
2番人気は皐月賞で2着のダイタクリーヴァ。
アグネスフライトは3番人気だったわ。
逃げ馬が作り出すペースは前半1000mが59.2と決して遅いペースではなかったわ。
エアシャカールは後方4番手に位置取り、アグネスフライトは後方2番手でエアシャカールを目標にレースを進めていたのよ。
先に動いたのはエアシャカールだったわ。
大欅を前に先頭を捉えに掛かるエアシャカールと武豊。
それを見てアグネスフライトと河内洋の仕掛けを開始したのよ。
直線残り400m地点でエアシャカールが先頭を捕まえに掛かったわ。
その時アグネスフライトはまだ3馬身ほど後方にいたの。
残り200mでエアシャカールが満を持して先頭に立ったわ。
外からアグネスフライトが来ていたがそのままエアシャカールが残ると思っていたけど、 そのエアシャカールに栗毛の馬体が1完歩ずつ詰め寄っていったわ。
師弟による世紀の叩き合いは、兄弟子・河内洋が制したわ。
その差は僅かハナだったの。
河内洋デビュー26年目での悲願達成だったわ。
秋は神戸新聞杯から始動したが、2着に敗れたの。
その後、菊花賞へと進み1.9倍の支持を集めたけれど、ダービーで競り勝ったエアシャカールに敗れてしまったわ。
年明け初戦の京都記念を2着とまずまずの滑り出しを見せたけど、その後の産経大阪杯で10着に敗れてしまったのよ。
その後、屈腱炎を発症し長い休養生活に入ったわ。
レースには復帰したけれど、結局ダービー以降1勝もすることが出来ずに引退したわ。
祖母から紡いだその血脈。
河内洋にダービージョッキーの称号を与える為に生まれてきたんでしょうね。
アグネス3世代の恩返しよ。