テスコガビーの基本情報
馬名 | テスコガビー |
生年月日 | 1972年4月14日~1977年1月19日 |
父 | テスコボーイ |
母 | キタノリュウ |
戦績 | 10戦7勝 |
主な勝ち鞍 | ’75桜花賞(G1) |
調教師 | 仲住芳雄 |
騎手 | 菅原泰夫 |
馬主 | 長島忠雄 |
生産者 | 福岡巌 |
これまでに74頭いる桜花賞馬。
その中でも、色褪せることなく今なお輝き続ける伝説の桜花賞馬がいるわ。
杉本清の名実況「後ろからはなんも来ない」
速さと強さを兼ね備えた牝馬。
牝馬でこの体格があらゆる関係者から敬遠をされる結果となったのよ。
その後調教師の中住芳雄の目に止まり購入されたけど、当初中住はこの馬を牡馬と思っており、歩様確認を行った際に初めて牝馬と気づいたとされているわ。
名前は“テスコガビー”。
由来は、オーナーの家の隣に住んでいたスイス生まれの少女の愛称が『ガビー』だったから。
だけど頓挫があってデビューは9月の東京になり、鞍上には中堅の菅原泰夫が選ばれたわ。
この新馬戦を7馬身差で圧勝すると、以降も圧倒的なスピードを武器に3連勝。
特に3戦目の京成杯3歳ステークスでは2着馬に6馬身もの差をつけ、おまけにレコード勝ち。
この年の最優秀3歳牝馬に選ばれたわ。
唯一の牝馬での参戦となったけど、朝日杯3歳ステークス2着のイシノマサルらを負かし勝利。
その後、桜花賞トライアルの阪神4歳牝馬特別に出走を予定していたんだけど、 レース間隔が空きすぎるためその前に再び牡馬との戦いを選び、東京4歳ステークスに出走したわ。
ここでは、カブラヤオーという牡馬と対戦したの。
共に菅原泰夫が主戦を務めていたんだけど、菅原はテスコガビーに騎乗。
レースではテスコガビーがカブラヤオーを終始マークする形を取り、直線で並びかけると最後はカブラヤオーに屈指テスコガビーは2着と惜敗したわ。
これが生涯で初めての敗戦だったのよ。
さすがに同年代の牝馬が相手では叶う馬などいなかったわ。
単勝支持率は88%というとてつもない支持を集め、結果はレコードでの逃げ切り勝ち。
万全の体制で桜花賞に向かったのよ。
これまで負けたのはたった1回。
牝馬相手では負け知らずのテスコガビーを単勝1.1倍でファンは迎えたわ。
もちろん文句無しの単枠指定だったの。
好スタートを切ると押してハナを主張したわ。
それでもテスコガビーは、4コーナー手前から徐々に後続を離しにかかり直線を向いたからさらに後ろを離したわ。
その時、実況の杉本清はこう言ったわ…
着差は大差。
桜花賞史上に残る圧勝劇だったわ。
ここは、完璧に仕上げられた桜花賞の反動があり3着。
そして、2冠をかけて挑んだ第36回オークス。
1番人気ながら、単勝オッズは2.3倍と桜花賞に比べたら大きく信頼を失うものだったわ。
ここでもハナを切ったのはテスコガビー。
桜花賞とは違いこのオークスではスローペースに落としたわ。
直線ではまた後続に大きな差を付けて8馬身差の圧勝だったわ。
これで牝馬2冠を達成したの。
復帰は1年後の5月のオープン戦だった。
テスコガビーと言えどもこのハンデは重く結果は6着。
その後、再び脚部不安を発症し休養。
馬主の要望により現役続行が決められ、調教を積まれていたけれど1977年1月19日の調教中に急にテスコガビーは転倒。
すぐに獣医師が呼ばれ診断の結果は“心臓麻痺”だったわ。
母親としての役目を全うすることなくテスコガビーはこの世を去ることになったのよ。
それを十二分に発揮し、見るものを驚かせた桜花賞。